作品を楽しむこと(プレイしたときの感情)と批評することは別というメモメモ

*自分用メモ

 

"娯楽作品はどこまでも娯楽に供することを目的として産まれるのであって、評される為に産まれてくる訳ではない筈です。評価など有っても無くても良い部分ではないですか?"

ここはグッときた。あとでちょいと考えます



1、エ口ゲの個人的体験の範囲と、楽しみ方
2,個人的体験と評(あるいは他者との感情共有)は別。 あるいはなくてもいい?

エ口ゲをプレイした時の個人的体験……言葉にすると難しいけど、「きらきら」した感覚だよね。 心的領域が色鮮やかになったりまたどす黒い影で覆われたり。そういう一次元的な情報(=感情の発露)

エ口ゲ(&アニメ&小説……etc)の価値といったらその感情の発露にどう影響したか? が重要だと思います。 えとね、エ口ゲの内容がクソで人に話したらなんだか良い作品に思えてきたぞ? とは思ってもエ口ゲの評価変えないでしょ?

もし人と話したことでそのエ口ゲの評価が変わるんだとしたら、(面白いとかは別で)そのエ口ゲをなんも見ていなかったということになるんでは

(とても抽象的でまだ言葉にできないのだけれど) 私的にここが煮詰めたい。 →外部情報によって、作品の評価が変わってしまった場合、あんたいったいその作品の何を見ていたの? という問題

人と話すことで、作品の良さをしったり悪さをしったり、感情を共有することで楽しい時間を過ごせた____のとはまた別の話しです

どんな面白い見方や視点を知っても、どんなに良い感想に出会ってもその作品の「評価」を変えないということは、自身の一次元的な情報を大事にした ということになるのかも?

あるいは作品の本質的な価値があって、その人がそれに気づけたというのなら、面白い事実を発見できてもそりゃ評価は変えないよねと。

(あともうちょい……なにかが必要……)

2,個人的体験と評(あるいは他者との感情共有)は別。あるいはなくてもいい? この2番の疑問は、そういう視点に立つと、その立場しかないよねという気もします

しょうのさんの_"娯楽作品はどこまでも娯楽に供することを目的として産まれるのであって、評される為に産まれてくる訳ではない筈です。評価など有っても無くても良い部分ではないですか?"

は私ふうにいうと「自分の一次元的な情報大事にしようよ」なんて読み替えちゃいます。

エ口スケの批評・レビューを見てても「評」することばっかりの投稿が多すぎて私は個人的にヤですね。嫌です。好きではありません。 だってその人の「プレイしたときの感情」がないテキストにどれだけの価値があるの?(私の立場)

あ……うむにゃるほどだからあまりエ口スケ活用しないのね。 なんかTwitterとかのほうが、一次元的な情報を出す人多い気がするなと

""娯楽作品はどこまでも娯楽に供することを目的として産まれるのであって、評される為に産まれてくる訳ではない筈です。評価など有っても無くても良い部分ではないですか?"" うむこれはとってもいいのです。私はエ口ゲ感想記事書きますし満足度つけちゃいますけどけど。基本的にはこの立場です

 

あちょっとだけ続けたい。評価を「つける」ということは、それを行なった時点で、その作品を規定してしまうことに繋がる。 それって作品の価値の幅を自分で消すことになるので、ソレが嫌いっていう人もいるんはよく分かるなと

(うまく説明できていないと思うんですけど、誰か分かってくれると嬉しいです)

あっぴーさんとかエ口ゲ記事書かないし評価つけない、でもエ口ゲやるしそれについて会話するのはありよみたいなスタンスだったと思うんですけど、そんな感じなのかなと想像していたり

で、エ口ゲの感想かくし満足度つける私からしても、「満足度つけるときに」毎度思うんですね。 「あこれに星★★★をつけると、この作品は★★★になってしまうんだ」と

ある作品を100点満点といった数字での評価は、その思いが顕著です。(なので私は★にしているんですけど)それとエ口スケの評価をみるたびに、 ◯☓作品を「90点」に押し込めてしまうのってナンセンスだよなと。それが役立つとか良い悪いではなく

作品の価値を「見える」「客観的な」数字で表した時点で、大切なものがどんどんこぼれていっている感覚

エ口ゲのレビューとか評価つけている人は、大抵感じているような気がするんですけど、どうなんですかね? 私はけっこうあります

ギャングスタ・リパブリカが100点……とかなんか違うよね……。みたいな。 100点以上の価値だと示そうとしたら、もう抽象的な表現に頼るしかなくて、あるいは感想という長文によってその価値を知らしめるしかないかなと

(エ口スケでギャングスタ・リパブリカを100点にいれたんですけど納得いかなくて、感想書いたよみたいな流れ)

評価をつけること自体が、そも自分という範囲を超えた「他者の為」になっているのです

ですです