画家の物語を評価できても、作品は評価できないのではという疑問

マイサ インテリアステッカー ハル もりのなかまたち ランプをもつピカソ L

 

ある物語を知りそこから「作品」のことを知ることは多い。 「ある物語があったからある作品を知った」ことが問題なんじゃなくて、「作品の価値」にその物語を直結させ作品価値を変動させてしまうことが問題なのかも?

例えば、ある画家の半生を知ったから、その人が書いた絵を"高く評価"するのは違うんじゃないかなということ。

ここで知識の不可逆性の問題が生じるけれど、それを分かった上で「外部物語」と「作品」を分けて考えることが必要なのではないか。また作品を評価するさいに、外部物語を直結させる必要もないんじゃないかなと私は考えます。

もし「外部物語」があるかないか、その物語の質が低いか高いかで「作品の価値/評価」が変わってしまうというのなら。 幼児が書いたようなラクガキも、外部の物語の質が高ければ高いほど、それは「良い絵」とされることだよね?おそらく。

(実際いまそんなふうになっているように見えますが……) でもそれってとてつもない違和感しか生まない。ここを是と出来る人は、そこをどう考えているのか知りたいなとか

んー例えば、ある絵のオークションでうん億円で落札される絵画とかあるじゃないですか。 でもその絵画から「画家の物語」を抜いたあとに、つまりその画家の絵じゃなかった! となったときに、 それでもうん億円支払えるのかな?と

私は美術的歴史にも観察眼も美術的視点に乏しいので、ニュースになったうん億円で落札された絵画とかみると、「なんだこの幼児が書いたようなラクガキは」っていう感想しか持てないこともあったり、

そんな大金を出すような「作品」なんだろうか?……と首を傾げてしまうこと多いなと

で「画家の物語」を抜いたあとの絵画に大金を支払えないというのなら、 じゃあ購入しているのは作品である「絵画」ではなく「画家の物語」を買ってると。

ふむ

観念を買ってるって感じなのかなあ…

じゃあじゃあさ。そうだと仮定します。作品を買っているのではなく、観念を、画家の物語を買っているんだとしましょう。 その人に「作品」を評価することが出来るのか?という疑問が出てくるような

その人は「画家の物語」は評価できても、「作品」を評価は出来ないのでは? "評価できない" というのは、作品を"見て"いないのに、どうやって価値をつけるのよさと。 「画家の物語」を排除した上でその人は作品を評価できるのだろうか

ふむたぶん私が感じている違和感の正体はこれだなと

 

もっと知りたいピカソ 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

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