ギャルゲーの倫理観と好悪感情、

変態王子と笑わない猫。 (MF文庫J)

 

エ口ゲの嫌悪感



・一般的に見てというのは、嫌悪感が分かるのは「倫理観」の影響。 ・個人的に見て嫌悪を感じるのは「個人」の影響

 

1、倫理観は、単純に「性」が関わってきているからだとうなあとは思う。しかし思うのがなんでこんなにもクローズドなんだろうか

2、個人の影響―――というより価値観。 で先日も言ったけれど、「一般的に見て」という思考をなくして「個人的に見て」も嫌悪感を感じるのは、直視しているからでもなんでもなく、ただ「個人」が影響している

なんかあのときの会話で、変な違和感を覚えたのはおそらくここなんだと思う。直視している? 

けれどそんなの正当化や欺瞞にしか聞こえないような気がします。 一般、常識、道徳、倫理―――ここの思考をとっぱらっても、嫌悪を感じるのは、「倫理=大勢の意識」ではなく1つの「個人」の影響だと見るべき

んとね「罪」とか「美しい」だとか「綺麗」だとか「美味しい」っていう概念・感情があるじゃない。 それの発生源が「倫理観」ではないとするなら、(倫理観を切り離したなら)あとに残るのは「自分がそう"思った”」にすぎないのよ

美醜の概念は、その人がそう"思う”だけで正しいや善悪により分けられるものでもない。正しくもないし、悪いわけでもない。ただの「好悪」。

倫理観は、好悪と善悪が織りなさなって混ざり合って存在しているように思える。 だから「常識からずれているのは"悪”い」や「人前で◯◯するなんて考えられない!」、あとはテーブルマナーとか

それで意図的に、意識的に、能動的にこの「倫理観」を外す。外した思考、残った思考には「自分」しか残らない。
ここに悪いとか正しいとかもない。ただ好きか嫌いか。 もしくは、どう感じるかだけ。醜い、美しい、汚い、綺麗、可愛い、素晴らしい

そして本題。(かも?)

ある事柄に大しての好悪や善悪、感情は「倫理観」と「自己」の総合出力のように思える。
そしてあえてこの「倫理観」を外して、自分が好きなものを、反対の感情(たとえば嫌悪)に感じるとき、それは「自己」が"感じる”だけなんじゃないかなと

「倫理観」を外せるのは簡単なように思えるけど、 もしかしたらこれが出来ない人もいるかも……?しれない

世間ではこう言われているけど、私はこれが好きだよ

これは外せている。これがごっちゃになっていると、「正しい」とか「悪い」とかいう見解になるがち。

「倫理観」を外した結果で「自身が好きなものを貶している」のは、物事を直視している、正当に見ている結果でもなんでもなくて、ただそう"思ってい”るだけなんだと私は思うよ。

違う言い方をするなら、好きなものをそう"視”ている。 べつにそういう見方をするなと言いたいわけではなく、それをあたかも「本当」だといわれるのはナンセンスかなあと

 

変態王子と笑わない猫。 (MF文庫J)

変態王子と笑わない猫。 (MF文庫J)