【ちきりん】昔の常識、今の倫理。「脊髄反射的」に行動している人は思考をすっ飛ばしているんじゃないかなかな。【自分のアタマで考えよう】

自分のアタマで考えよう

 

理由の無い常識はこわい。全く論理的でも効率的でもないことが「一般的だから」「普通だから」という訳の分からない感情でまかり通ってしまう。

 という言葉を見かけたので、私はちょっと考えてみます。

 

昔の常識が、今なお残留していると「よく分からない、なんでこんなにも意味のない無駄な"常識”なんだろう」と思うことがあるような気もします。 
女だから◯◯、男だから◯◯というの以前と今じゃ大分変わってきたのも、大勢がそれを認知・是認したからなのかなーとも。

あと何があるだろう……。硬直した倫理は、誰かが壊しくれることを願いつつ、自分にとって都合のいい倫理観はずっと残りますように―――と願ってみる。

硬直した倫理→少数が声をあげる→多数の圧力がかかる→長い期間その主張が残留したばあい、多数派が共感してくる→ その主張は少数から多数

少数から多数になり、倫理観へと移ろっていくのかもしれない

 

 「問題なのは「普通だから常識だから」という論理的でない感情論で思考停止することです。」

 

 

1、「みんな(=大勢)」がそれで納得しているから、私もそれでいいと納得する(思考停止)

2、考えなくてもいいことは、考えない。考えることだけ考える。(思考停止という一つの才能)

なんかどうしても、「思考停止」の方向に行ってしまいますね……。
(1)は、比較できる知識がない。考えること<感情 の優先順位が高い。 多数派にいると安心するよね!

(2)はこれ割りと私が好きな人。考えないことは考えない。考えることだけを考える。そういう自分の中で確固とした基準があって、それを自己に規定するかのように行動している人。 

考えても仕方ないことはやっぱりあるし、論理的欠陥が見つかっても少数派だったばあいどうにもならないよねえと、

少し悲観的。 考えない、ことは一つの才能……というより資質? けどこれは感情に直結するタイプじゃないからなあ……

これはもう心のモジュールのような気がします。 なんというか、ある事が起きた。さあどうする? このときに、先ず一旦考える人と、脊髄反射的に行動する人に別れると思う。 で次に 考えるだけで終わる人と、考えて行動する人に別れる。

んでは次に「脊髄反射な人」。これは会うたびに思うんだけど、事柄の許容値が低いひとが多い気がしてならない。 自分に"常識内”で当てはまらないことは、門前払いなのね。そのことにたいしてまず考えない。もう既に答えがある。意見がぶつかったときに、押し付けてくる人とかもこれが多い……かも?

対話する気が無い人もだいたいこんな感じ。 話しあおう→拒否→何がしたいの?→おれの言うことを聞けばいい→話し合いをしないのに? →暴力。 とか。

なんでこんなにも考えない人なんだろうと、脊髄反射的に手を出すのだろうと考えてみたら、「思考」する段階をスキップしているような気がしてならない。 本人は思考しているようで、それもうめちゃくちゃにバイアス掛かってたり。

けれど楽ちんな生き方だなーとも思う。楽だよね考えないことは、たまに大損するけど

 

大事な妹。 可愛い彼女。 頼れる親友。 好きな人。 今日も世界はこんなに平和だ。 気分がいいので、保健室に行こう。

きみとぼくの壊れた世界

 

気分がいいので保健室に行きたい

 

そうだよ! 

脊髄反射的な、動物的な行動をしてしまうのは、自分のアタマで考えていないからなんだよ!!

そこでちきりんさんの本を読もう「自分のアタマで考えよう」(だが私は読んでいない読みたい)

 

いや保健室に行きたい!!(爆)

 

 

「面白いブログ」とは、自分のアタマで『考えた』ものかも?! (2377文字) 

 

 

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう

きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)

きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)

少女不十分 (講談社ノベルス)

少女不十分 (講談社ノベルス)